怪しい彼女

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オ・マルスンさんが若かりしあの頃/秋月 望 (明治学院大学 国際学部教授)

 韓国では満65歳以上になると地下鉄にタダで乗れる。いろいろな施設の入場料も無料になる。今年満65歳を迎えるのは1949年生まれで、私もその一人。しかし、地下鉄に無料で乗るにはICチップの埋め込まれた韓国の住民登録証が必要で、それがない外国人の私は無料では乗れない。ちょっと不満だが致し方ない。  韓国の年齢は普通「数え年」なので、満年齢よりも1〜2歳多くなる。だから、いま「チルスン(七旬)=70歳」くらいの世代がちょうど私よりも4〜5歳上、つまり日本の植民地支配が終わった1945年前後に生まれた「高齢者」である。1945年の解放から、48年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の建国、そして50年からの朝鮮戦争を体験し、その後の混乱と窮乏と貧困、そして80年代以降の驚異的な成長という大韓民国の歩みを、まさに体で実感してきた世代である。10代のはじめが朝鮮戦争後の混乱期、10代の終わりから20代の青春期が、いまの朴槿恵大統領の父親である朴正煕大統領による強権政治と開発独裁の時代に重なる。
 1960年代のはじめ、韓国の一人当たりの国民所得は100ドルにも満たなかった。それが95年には10,000ドルを越え、昨年は24,000ドルに達している。つまり、信じがたいほどの速度で経済成長を成し遂げて来たのだ。まさに「奇跡」である。今の韓国社会の若者は、生まれた時からそれなりの豊かさを享受してきた。その親の世代の40〜50歳の中年層は、急速な成長―所得の上昇と産業化・高学歴化など―の中で自分の親の時代を振り返る余裕はなかった。新しい時代に追いついていくのに必死だった。誰も振り返ることがなければ、老人たちの足跡はは老いていく人々だけのものでしかない。

 1961年のクーデターで始まった朴正煕時代は、貧しさから抜け出すための施策が優先された。外貨獲得のため、出稼ぎ労働者を西ドイツに送り込む事業がはじまったのが1963年。1977年までに、8000人近くが炭坑労働者として、1万人を越える女性が看護師としてドイツに渡った。1965年になると、ベトナムへのアメリカの本格的軍事介入を期に、朴正煕政権はベトナムの戦場に韓国軍将兵を送り込んだ。同時に韓国企業がベトナムに進出して「ベトナム特需」をもたらした。同じ1965年、日韓国交正常化交渉が妥結して有償・無償5億ドルの「財産・請求権」に基づく資金が日本からもたらされた。さらに1974年からは中東の産油国への東亜、現代、双龍などの建設会社の進出が始まり、多くの出稼ぎ労働者が今度は灼熱の砂漠に向かった。こうした中で、ソウルと仁川、ソウルと釜山を結ぶ高速道路が完成し、ソウルの地下鉄1号線が開通し、浦項では製鉄所が稼働し始めたのである。  その一方で、公的なセイフティネットは皆無だったといってもよい。貧しい人々は、子供が病気になれば抱きしめるしかない。母子家庭になると拾い食いをしてでも生き抜かねばならない。両親を失った孤児で他人の家の手伝いをして糊口を凌げるのはまだ幸運な部類だった。ちょっとした稼ぎのある家には「シンモ(食母)」と呼ばれる家事をする住み込みの若い女性がいたし、雑用をして食わせてもらう使用人がいる家も珍しくなかった。豊かではない人々がより貧しい人々を扶養する。これが当時の現実だった。だから、使う側と使われるも側、養う側と養われる側は固定的ではない。流動的である。「どじょう鍋」の店の使用人がある日突然「どじょう鍋」の店を出し、食わせてもらっていたもとの店をつぶしてしまうということも起きる。それぞれが、そうやって生き抜いて来たんだ、そんな時代だったんだという思いがあるが、それはなかなか次の世代や次の次の世代には届かない。

 そんな時代に大きな転機が訪れたのは1979年10月。朴正煕大統領が、腹心の部下であった金載圭中央情報部長によって暗殺されたのである。「ソウルの春」「光州事件」を経て、全斗煥大統領によって再び強権的独裁政治の時代になるのだが、これ以降は確実に70年代とは違う時代に突入していった。1988年のソウルオリンピック開催が決まったのが1981年。翌82年には、それまでずっと実施されてきた夜間通行禁止令が解除され、「市民自律バス」という名前でバスのワンマン化も始まった。「アンネヤン(案内嬢)」と呼ばれた車掌アガシがラッシュ時にはドアにぶら下がりながら車体をドンドンとたたいて発車や停車の合図をする光景も次第に見られなくなっていった。  バン・ジハの父ヒョンチョルが大学に入ったのはこの頃。全大学統一の学力考試が始まり、1970年代末には26〜7%だった大学進学率が、82年代には38%近くにまであがった。60〜70年代を遮二無二生き抜いたオモニの息子や娘が進学し、高学歴社会へと向かい始めた。  この映画に使われている「白い蝶(1975)」「雨水(1976)」「ロスに行けば(1978)」は、いずれも「あの時代」が終わる1970年代後半の曲である。「米国コーヒー」の好きなハルモニが「私は69歳」と歌った曲も、1977年の「私は17歳です」という曲。「白い蝶」の回想のシーンとは時代的にずれはあるが、「あの時代」を象徴するのはまさに1970年代の後半なのである。

秋月 望《明治学院大学国際学部教授》

福岡生まれ。九州大学大学院で朝鮮史学専攻。高麗大学大学院に留学。ソウルの日本大使館文化院で専門調査員(1984−87)。その後、明学国際学部に着任。専門は朝鮮半島の近現代史。

 1970年代後半、テレビはあったがチャンネルが三つしかなく、午前中と夕方以降しか放送していなかった。そこにカセットプレーヤーが急速に普及した。著作権無視の海賊版カセットテープがどんどん売られ、ヒット曲は「聞こえてくるもの」から「聴きたいときに聴くもの」になった。  あの朴正煕大統領の暗殺の時に酒宴に同席していたシム・スボンが大学歌謡祭で脚光を浴びたのが1978年、「あの時のあの人」が大ヒットしたのが1979年のこと。まさにその時期、30代の後半にさしかかったオ・マルスンの波乱の人生の前編が幕を閉じようとしていたのである。
 いまの韓国社会からは想像もできないような困難と貧困のなかにあった時代。この映画に描かれた世界からは、「あの時代」があったからいまがある、と振り返れるほどに豊かになり、それを知らない世代にハルモニたちが乗り越えて来た「貧しかった過去」「苦しかった過去」があったことを知らしめようとする現在の韓国社会の自負や自信が感じられるのである。